渭南エココミュニティー

INAN eco community
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渭南について

 私が中学生の頃、誰だったか記憶が定かでないのだが、恩師の一人から「この地方は古くから京の文化と関係が深く、東予、中予を飛び越えて京言葉が使われてきた」と教わった。なるほど成人してからしばらく滞在した敦賀では、食事時「ご飯食べなはらんか」と誘う言葉に出会った。我がふるさとと全く同じ表現である。それ以来渭南の地名はずっと私のなかにすみ続けてきた。そして四国西南の自然を調査し、記録するにふさわしい名前として渭南エコ・コミュニティーを使い始めた。

 最近、文化財関係でお世話になっている N先生に渭南の由来をお聞きしたところ、本田南城先生が渭南について書いておられると、下記の書物をお貸しくださった。早速本田南城先生にお許しを願って、HPに掲載させて頂いた次第である。

渭南・歴史風土と民話

本田南城
西南四国歴史文化論叢「よど」:西南四国歴史文化研究会刊から転載

機±脇遒砲弔い
 私たちの住んでいるこの西南四国を「渭南」と呼んでいる。何故渭南と呼ばれているのであろうか。渭南は西南四国人にとっては掛け替えのない生まれ育ったなつかしい故郷である。

 渭南とは、南予と呼ばれる愛媛県宇和島市日振島から、高知県幡多郡入野の浜の最南端白田川村海岸線 260kmの西南四国の海岸線であった。  当初、昭和26年(1951)10月20日高知県桃井真美知事が、時の橋本竜吾厚生大臣に提出された「渭南国立公園指定申請書」には、「高知県幡多郡白田川村より愛媛県北宇和郡日振島村(現宇和島市)に到る海岸一帯は、通称渭南海岸地方と呼ばれ海岸線360kmに亘って豪壮にして精美を極め、その男性的海岸美と森林美は卓絶せる特異の景観を呈し、我国の代表的な景勝地であり…」

 右のように我が西南四国を渭南地方と呼ばれ、国立公園指定の申請書が提出され、渭南地方が提示された。

 即ち当初渭南地域として申請に関係した町村は次の如くである。高知県幡多郡白田川村、中村町、下加江町、清水町、三崎町、下川口町、月灘町、奥内村、小筑紫町、宿毛町、沖ノ島村。愛媛県北宇和郡下灘村、日振島村。
(以上申請書より)

 昭和28年(1953)2月愛媛県土木部都市計画課より「渭南海岸自然公園調査書が作られ国立公園申請書として厚生大臣に提出」される等「渭南国立公園指定」運動による基本的な、高知県と愛媛県との強い要請により遂に昭和30年(1955)4月足摺国定公園に指定され、さらに昭和39年(1964)3月には指定地域が拡張され、昭和47年(1972)11月足摺宇和海国立公園に昇格した。  関係市町村では、北から東宇和郡宇和町、北宇和郡吉田町、宇和島市、北宇和郡広見町、松野町、津島町、南宇和郡内海村、御荘町、城辺町、西海町、一本松町が含まれる。高知県側は、幡多郡三原村、大月町、大方町、西土佐村、中村市、宿毛市、清水市。

 足摺岬周辺から西へ臼碆、松崎、千尋、竜串、叶崎、大堂、柏島へと約30kmにわたってつづく海岸一帯、さらに沖ノ島、鵜来島、姫島、びろう島の各島。内陸部では愛媛県と県境の篠山(1065m)が含まれた。

 愛媛県側は、県南の黒崎鼻から北西に向かって天蟻鼻、鹿島、由良岬を経て宇和島に至る海岸一帯、宇和海に浮かぶ日振島、戸島、御五神島の各島。さらに内陸部の滑床渓谷、法華津峠付近の地区が含まれた。

 このように拡張し発展した渭南は、今では西南四国全てを含めて渭南と呼ばれるようになっている。

 このような渭南が、どうして渭南と呼ばれるようになったのか。郷土の多くの人々に、その歴史風土とそして渭南郷土で生まれた独特とも言ってよい特長を持つ民話を知って頂きたくペンを執った次第である。


供±脇遒領鮖(由来)
 渭南はもと「以南」と言われていた。江戸時代の初め頃、建長二年(1597)土佐に光明峰寺というお寺がある。そのお寺に関白道家の記述した「処分記」という古文書がある。その中の一節に「新領土佐国幡多郡…以南庄…」とあることから、古くから以南と呼ばれていたことがわかる。

 それでは以南の地域はどこであろうか。大日本地名辞書、寺石正路氏「幡多郡郷土史」、南路志等を見て勘考すると、以南とは四万十川以南を指していると記されている。それは当時清水村を中心にした下加江、下川口、月灘、三崎、清松であると、高知県林務課の中川技師が教示している。

 江戸時代の昔から明治まで以南と呼ばれてきた呼名が何時どうして渭南になったのであろうか。明治 33年(1900)以南地域の各村、伊豆田、上灘、清松、三崎、下川口、清水の教育関係者が地区教育研究会をもった。その時全体会の席上で「以南教務研究会」が結成され、会長は土佐幡多郡南陽地域中平信太郎氏が会長に選任された。彼は幡多郡の南陽高等小学校の校長であった。翌年明治34年(1901)以南教務研究会の呼びかけで隣接である愛媛県の南予の教育会と知識人を含めて予土合同研究会が開かれた。この大研究会で以南教務会の会長であり,大研究会の主催者である中平信太郎校長から次のような理由の提案がなされたのである。(参考資料、沖本白水「渭南について」昭和二十八年刊教育時報より、南宇和篠山小学校長)

 「お隣の中国に、渭水という所がある。……この渭水の流域は、黄土と呼ばれる地味のよく肥えた沃野で、古くから周をはじめ秦、隋、唐と中国古代の有名な国が起こり栄えた処であり、中国の政治、経済、文化の中心地区を形成し、多くのすぐれた人材が出た処である。今から約二千年も前、万里の長城を築いた秦の始皇帝が、渭水の咸陽に漢の高祖劉邦が長安に、後漢の光武帝が洛陽に、五八九年隋、六二八年唐が長安に都を定め非常によく栄えた。その漢、この渭水地域から非常に多くの人材が出たのである。

 この中国の渭水になぞらえて、土佐中村市街を流れている四万十川流域で、特に中村の町は、応仁の乱を避け、関白一条教房が中村に下り土佐の国司となって栄えた。それ以前から中村は、京都と関係が深く、古くから文化が栄え、西南四国の古都と言われ、中村周辺から多くの人材が出ている。 それが中国の渭水によく似ているところから、渭南の呼称を提案し、併せて土佐幡多地域から愛媛の南予地区に拡大することが提案された。」

 討論の結果、全員の賛成で、南予の宇和海と土佐の西南海岸を合わせて「渭南」という名称で呼ぶことが満場一致で決められた。

 当会の議長であり、渭南教務会の会長である中平信太郎校長は、会議後上灘、清松両村組合渭南高等小学校 元南陽高等小学校)と解消した。中平校長は教育者を育てようと熱心な教育の実践を行った。このようなことから卒業生が順次世に立ち、殊にその多数が教育者になって、渭南の名を広めた。

 しかし、渭南の名称は教育界以外はあまり使われなかった。公文書では大正年間までは以南であったが、次第に改められ渭南が使われるようになった。「渭南」お名称は定着した。
-略-

掘±脇遒侶粉僂班土
 渭南海岸は、黒潮本流と、その支流である豊後水道によって作られた。ここは流れが速い分だけ、海の新陳代謝がさかんである。魚が豊富でうまい。黒潮はまた花崗岩の岸辺を削り、波荒々しくも美しい海岸線をつくった。リアス式海岸線と、沖合いにある島々が、この渭南海岸の景観の特徴である。

 この様に見ると、その成立の自然的条件としては、変化無限、風光明媚なリアス式海岸と諸島、岬、黒潮の支流を淀ませている碧い海、そして底抜けに明るい南国の太陽がある。

 ここに住む、いわゆる西南四国の渭南人は、南予と土佐の南国との共通した風土的気質を持っている。即ち、底抜けの明るさ、全量であっておおらかである。世話好きで、ともすると限度を超えておせっかいになる程、他人も家も自分も区別がつかなくなる程の人の良さもある。南国特有で明るく実に楽天的である。そしてのんびりしていながら実は芯が強い。同じ南国渭南の風土の産物かもしれない。
-略-

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